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2013年06月22日

望郷の念に浸っていた与謝蕪村

毛馬一三

 江戸時代中期の大阪俳人で画家であった与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれている。ところが、その生誕地が大阪毛馬村だと余り周知されていない。 蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸へ下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な望郷は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。  京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだものの、母親が若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎにも成れず、周囲から私生児扱いの過酷ないじめに遭わされたことから、意を決して毛馬村を飛び出したに違いない。蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だった。だが、この超有名な師匠との縁がどうして出来たのか、しかも師事として俳諧を学ぶことが、どうしてできたのか、江戸下りの旅費・生活費はどうやって賄ったのか、等々ミステリーだらけだ。

 蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、生誕地毛馬村をすり抜けて、頻繁に大阪にやって来ていた。京都から淀川を船でやって来て大阪に上ったのは、生誕地毛馬村と少し離れている淀川(現在は大川)下流の源八橋の検問所があった船着き場だった。ここから上がって大阪市内に居る数多くの門人弟子らを訪ねて回っている。

 また蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ねたり、蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回るなど、大阪市内いたる所を巡回している。特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

 ところで、蕪村の活躍の主舞台は、絵画・俳諧で名を上げた京都だとされている。だが実際は、大阪も上記の通り活躍の場だったのだ。これもあまり知られていない。船着き場の源八橋から生誕地の毛馬まで歩こうとすれば、30分ほどしかかからない。それなのに蕪村は、生涯毛馬には一歩も足を踏み入れなかった。やはり母の死後、家人から苛められ過ぎ、出家まで決意させられた辛い思いが、大坂に帰郷すれば脳裏を支配し、終生「怨念化」して立ち寄りを阻んだのだろう。それが「信念」だったとしたら、蕪村の辛さは過酷すぎるものだったと思える。とは云うものの、蕪村の「望郷の念」は、人一倍あったのは間違いないようだ。

 自作の「春風馬堤曲」の中で、帰郷する奉公人娘になぞらえて生誕地毛馬への自己の想いを書き綴っている。この「春風馬堤曲」を弟子に送った時、「子供の頃、毛馬堤で遊んだ」と回顧する記述を付して、望郷の気持ちを伝えていることからも、「蕪村の悲痛な心境」が伺える。蕪村の心の奥底に去来していたのは、「故郷は遠くにありて想うもの」であり、毛馬生誕地に一度も立ち寄らなかった理由が、故郷毛馬での生き様と深く結びつくだけに、蕪村人生の輪郭が、際立って浮かび上がってくる。

 筆者が主宰するNPO法人近畿ホーラム21主催の「蕪村顕彰俳句大学」では、大阪市立大学と共同し3年後に迫った2016年に「蕪村生誕300年祭」開催の準備を進めている。 地元淀川連合町会や地元NPO法人とも、共同事業にする方向で折衝をしている。「芭蕉・一茶」の生誕地では、生誕祭を含め様々な記念事業を行っている。しかし大阪俳人蕪村生誕を顕彰する「お祭り」の実績は全くない。何としてでも「蕪村生誕300年祭」を成功させ、大阪俳人与謝蕪村の名を国内外に広めたいと考えている。

 大阪を行脚しながら、生誕地毛馬町に一度も足を踏み入れなかった蕪村を、「蕪村生誕300年祭」開催の時には、「蕪村魂」だけでも来場して貰いたいと思っている。「望郷の念」に浸されていた蕪村の「夢」を実現させることが、筆者の人生最後の願いでもある。(了)
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2013年06月19日

9月の表彰式は「蕪村顕彰全国大会」です

蕪村顕彰俳句大学 事務局

                

 NPO法人近畿フォーラム21主催の「蕪村顕彰俳句大学」は、6月17日に「月刊:俳句会」を発刊している株式会社・文學の森と「共同運営事業契約」を結ぶことが出来ました。


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  この共同事業の目的は、「蕪村顕彰俳句大学」と「文學の森」が、俳人与謝蕪村を顕彰し伝統俳句文化の振興に資するため、蕪村顕彰俳句大学が主催する俳句講座「蕪村顕彰俳句大学」に「文學の森」が協賛し、さらに国内外との俳句交流に貢献を進めるというものです。



 同「契約」は6月17日に、文學の森が「月刊俳句会創刊10周年記念祝典」を大阪市内で行われた際、蕪村顕彰俳句大学の川原俊明学長と文學の森の姜h東代表取締役が面談し、上記目的の共同事業推進に正式に合意した上で、双方が署名押印して、無事終了しました。



 同「契約」に基づき、初回の「蕪村顕彰全国大会」は、今年第7期前期9月「表彰式」から開催することになりました。このため文學の森には、「蕪村顕彰全国大会」に向けて投句募集をして頂き、入賞句に対して大阪府知事賞・市長賞・学長賞、文學の森賞を授与する「画期的な共同事業」が実現したのです。
(なお、後期来年3月の「表彰式」は、蕪村顕彰大学の単独開催です)。

投句締切は、7月31日(水)で、

当句先は:〒169−0075 東京都新宿区高田馬場2−1−1−8F

株式会社 文學の森「蕪村顕彰全国大会」係です。

問い合わせは、同上(TEL:03−5292−9188 FAX:03−5292−9199)。

応募は、2句1組で、応募料は1組につき1000円(書留または郵便小為替)。


 ところで、この共同事業により、事実上関西が中心だった「与謝蕪村生誕地の大阪毛馬名と蕪村の俳句文化」が全国に広められることになり、われわれ蕪村顕彰俳句大学が目指していた後世へ託して行く「俳句文化の夢」が実を結び、素晴らしい事業推進に繋がって行くものと期待を膨らませております。


 ところで、3年後の2016年に迫って来た「蕪村生誕300年祭」を順次進めて行く計画を、大阪市大文学部の村田正博教授を「蕪村生誕300年記念事業委員会」の委員長に就任して頂き、市大の協力を求めて進めております。
この「蕪村生誕300年祭」を盛り上げるためにも、今回「共同事業」を契約した文學の森に更にお願いし、蕪村生誕300年祭の機運を高めて参りたいと考えて居ります。同時に「世界最短の詩」俳句の国際交流に貢献し、世界俳句愛好家の大阪毛馬への集客にも力を注いでいきたい決意です。



 この度、文學の森と「蕪村顕彰全国俳句大会」開催が出来るようになったことは、平成20年に蕪村顕彰俳句大学の句会講座を開講して以来の、大きな進歩になりました。共同事業にご協力頂いたことに深謝しております。
つきましては、文學の森に対しまして、これを機に蕪村俳句の高揚と生誕地・大阪毛馬の名を国内外に広めて行くことに、ご協力を賜りたいと、改めてお願い申し上げる次第で御座います。


<なお、第7期蕪村顕彰全国俳句大会へ全国からの「応募用紙」は、文學の森HPよりダウンロードして頂き、全国の俳句愛好家の方々に「投句」をして頂きますようお願い致します。

以上

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2013年06月16日

第7期6月「大橋句会講座」が開講しました

蕪村顕彰俳句大学 事務局

                

 大橋晄講師による7期3回目の「句会講座」が、6月14日午後1時から追手門学院大阪城スクエアで開講しました。真夏日に見舞われた当日には、汗だくだくで受講生が来講されました。

「句会講座」は、まず「麦一切」、「緑蔭」を兼題に出句された受講生の作品をお互いに選句することから始まりました。これに続いて大橋晄講師による「佳作。入選、特選」の発表と、1句毎の綿密な「選評」が行われました。

 ところで、大橋晄講師は第7期の初回講座から、上記の「俳句を学ぶ句会」と共に、「蕪村を知り、蕪村の俳句を学ぶ。蕪村の人生、人となりを買い垣間見、蕪村の様々な俳句を味合う」テーマで「特別講演」が行われています。今回の講演の題名は、「若き日の蕪村」で、「国文学解釈と鑑賞」所収の「蕪村・その人と芸術」(尾形仂・森本哲郎対談)を引用しながら、「蕪村の人生」などを講演されました。その説明の中で、非常に興味を曳いたのは、引用文書からの一部に、山下一海氏(九州大学・文學博士)の記述の内容でした。下記に少し掲載してみます。

<蕪村にとって故郷毛馬村は、積極的な意味で、ととまっていたくないところであったかも知れない。蕪村のような生い立ちの人間にとって、故郷の家が消滅することは、さっぱりと心地よいことでもあったのだろう。しかしそれだけに、故郷の思いは、反って深く、心の底に沈殿した。そして生涯にわたって、そこから沸々と発酵するものがあった。しかしその後、ほんのすぐそばを通っても、蕪村は一度も故郷に足を踏み入れていない。そこに蕪村と故郷の特別の関係が窺われるように思われる。>

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 ところで、蕪村の心の奥底に沈殿しているのは、「故郷は遠くにありて想うもの」であり、毛馬生誕地に一度も立ち寄らなかった理由が、故郷毛馬での生き様と深く結びついていることが、この「講演」で改めて浮かび上がって来ました。

蕪村に関して関心の的になっている「蕪村の悲痛な心境」が、この「講演」で勉強させられました。
 

 さて、蕪村顕彰俳句大学は、これもNPO法人近畿フォーラム21主催の「蕪村生誕300年記念事業委員会(委員長:村田正博大阪市大文学部教授)と協力して、3年後の2016年に「蕪村生誕300年祭」を行います。この「記念祭の日」に、一度も立ち寄らなかった生誕地大阪毛馬町に何としてでも、帰って来てくれることを、蕪村に願いたいのです。どうか、「句会講座」と共に、「蕪村生誕300年祭」開催に皆様のお力添えを賜ります様、心からお願い致します。

以上
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