2013年06月30日

松尾芭蕉の青春時代

平井 修一(特別寄稿)
                

 青春と言うのはある程度"悶々"としていた方がいいのではないか。道を求めて先人の書物を乱読するという、後から振り返ればかけがえのない期間になるからだ。病床で「おくのほそ道」を読みながら、そう思った。  松尾芭蕉の青春時代は生地の伊賀上野(三重県伊賀市)を治める藤堂新七郎家の世継ぎ、良忠に仕えるようになった18〜19歳頃から始まる。

 藤堂家は文芸文筆に秀でた一族で、戦乱が終息し、安定した江戸時代にはさらに力を入れたという。良忠の趣味は俳諧で、芭蕉ともども京都の北村季吟に師事しており、芭蕉が仕官できたのも俳諧がとりもつ縁だった。

芭蕉の実家は名字帯刀は許されていたが身分は農民で、彼は次男坊だから実家には頼れない。良忠の近習あるいは料理人として仕官でき、禄を食むようになったことは大きな出世だったろう。

 しかし、好事魔多しで、芭蕉22歳のときに良忠が24歳で亡くなる。主君であり文学仲間でもあった良忠の死は、青年芭蕉に大きなショックを与え、この後、藤堂家を去る。

 そして7年後、29歳のときに芭蕉の最初の出版物「貝おほひ」を著わして俳壇に名乗りを上げることになるのだが、この間の7年間の消息はほとんど明らかになっていない。

 芭蕉研究の第一人者、萩原恭男は、この間芭蕉は禅林(禅宗寺院)で暮らしていたのではないかと、こう推測している。

 <生家を出た芭蕉は、その後の数年間の生活の場を京都の禅林などと想定するのがもっとも自然ではなかろうか。京都は亡君良忠の師、北村季吟の居所でもあり、俳諧への途を強く意識しつつ自立の方途をさぐり、同時に当面の生活をも支え修学、修行できる場所として、かかる好条件の場は他になかったに違いない>

 当時の京都の禅林には浪人などが常時200〜300人はおり、勤労奉仕、托鉢、座禅、漢詩文の素読を日課としていたという。芭蕉もその一人だったろう。

 芭蕉は大変な読書家である。「おくのほそ道」だけでも引用している本は123冊に及び、当時の名著、古典はほとんど読んでいる(「奥細道菅菰抄」)。たとえば――

 老子、荘子、書経、詩経、易経、論語、荀子、孟子から古事記、日本紀、前太平記、東鑑、源平盛衰記などの歴史書、大日経、金剛経、阿弥陀経、法華経などの仏典、万葉集、古今集、拾遺集などの歌集、源氏物語、伊勢物語、枕草子、徒然草・・・僧坊の書庫にある書物を片端から読んだろう。

 読書をしたからと言って青春の煩悶が消えるわけではないし、「人はかく生きるべし」といった明確な指針が得られるわけではない。読めば読むほどに問題意識や視野が広がるから、むしろ惑いは深くなるのかもしれな
い。

 芭蕉も「ある時は仕官をうらやみ、ひとたびは僧侶の途に入らんとせし」(「幻住庵記」)と悩みに悩むが、この精神の彷徨、精神の鍛錬こそが、やがては血肉に結晶するのではないか。芭蕉は「この一筋」と俳諧師として立つことを決心する。

 <ある時は俳諧に飽きてやめてしまおうと思い、ある時はすすんで人に勝って誇ろうとし、あれこれと迷い悩んで、そのために身も安らかではなかった。

 一時は世に出て立身出世を願ったが、この俳諧への執心のためにさまたげられ、また一時は学問をしておのれの愚かさを悟ろうと思ったけれども、やはり俳諧への思いのために破られ、ついに無能無芸のままに、ただ俳諧の一筋に生きる決意を固めた>(「笈の小文」)

 芭蕉が煩悶の中ではぐくんできた知識、教養、気骨、感性そして決意をもって江戸に向かったのは寛文12年(1672)、芭蕉29歳の時であった・・・

 書物があふれている時代が続いている。漫画やゲーム、オーディオ、ビデオなどを含めて娯楽の種類や量も今は爆発的に増えており、面白おかしく生きることが容易になった。だから若者が"悶々"とすることも暇を持て余すこともずいぶんと少なくなっているだろう。

 そのために思考することも少なくなり、逆境に遭うと思考停止のフリーズ状態になり、へたってしまう軟弱な若者が増えているのではないか。新入社員の離職率も年々高まっていると聞く。

 数十年、数百年と読み継がれてきた良書、古典を通じて学び、自らを鍛えるということは今の青春にはほとんどないのではないか。悩みがないか、せいぜい恋人がいないとか就職に苦労するくらいの矮小な悩みしかない。それは幸福そうに見えても実は不幸だろう。悩むべき時に悩まないツケは、いつかは回ってくるに違いない。(2013/06/28)

<「頂門の一針」から転載>
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2013年06月22日

望郷の念に浸っていた与謝蕪村

毛馬一三

 江戸時代中期の大阪俳人で画家であった与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれている。ところが、その生誕地が大阪毛馬村だと余り周知されていない。 蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸へ下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な望郷は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。  京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだものの、母親が若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎにも成れず、周囲から私生児扱いの過酷ないじめに遭わされたことから、意を決して毛馬村を飛び出したに違いない。蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だった。だが、この超有名な師匠との縁がどうして出来たのか、しかも師事として俳諧を学ぶことが、どうしてできたのか、江戸下りの旅費・生活費はどうやって賄ったのか、等々ミステリーだらけだ。

 蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、生誕地毛馬村をすり抜けて、頻繁に大阪にやって来ていた。京都から淀川を船でやって来て大阪に上ったのは、生誕地毛馬村と少し離れている淀川(現在は大川)下流の源八橋の検問所があった船着き場だった。ここから上がって大阪市内に居る数多くの門人弟子らを訪ねて回っている。

 また蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ねたり、蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回るなど、大阪市内いたる所を巡回している。特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

 ところで、蕪村の活躍の主舞台は、絵画・俳諧で名を上げた京都だとされている。だが実際は、大阪も上記の通り活躍の場だったのだ。これもあまり知られていない。船着き場の源八橋から生誕地の毛馬まで歩こうとすれば、30分ほどしかかからない。それなのに蕪村は、生涯毛馬には一歩も足を踏み入れなかった。やはり母の死後、家人から苛められ過ぎ、出家まで決意させられた辛い思いが、大坂に帰郷すれば脳裏を支配し、終生「怨念化」して立ち寄りを阻んだのだろう。それが「信念」だったとしたら、蕪村の辛さは過酷すぎるものだったと思える。とは云うものの、蕪村の「望郷の念」は、人一倍あったのは間違いないようだ。

 自作の「春風馬堤曲」の中で、帰郷する奉公人娘になぞらえて生誕地毛馬への自己の想いを書き綴っている。この「春風馬堤曲」を弟子に送った時、「子供の頃、毛馬堤で遊んだ」と回顧する記述を付して、望郷の気持ちを伝えていることからも、「蕪村の悲痛な心境」が伺える。蕪村の心の奥底に去来していたのは、「故郷は遠くにありて想うもの」であり、毛馬生誕地に一度も立ち寄らなかった理由が、故郷毛馬での生き様と深く結びつくだけに、蕪村人生の輪郭が、際立って浮かび上がってくる。

 筆者が主宰するNPO法人近畿ホーラム21主催の「蕪村顕彰俳句大学」では、大阪市立大学と共同し3年後に迫った2016年に「蕪村生誕300年祭」開催の準備を進めている。 地元淀川連合町会や地元NPO法人とも、共同事業にする方向で折衝をしている。「芭蕉・一茶」の生誕地では、生誕祭を含め様々な記念事業を行っている。しかし大阪俳人蕪村生誕を顕彰する「お祭り」の実績は全くない。何としてでも「蕪村生誕300年祭」を成功させ、大阪俳人与謝蕪村の名を国内外に広めたいと考えている。

 大阪を行脚しながら、生誕地毛馬町に一度も足を踏み入れなかった蕪村を、「蕪村生誕300年祭」開催の時には、「蕪村魂」だけでも来場して貰いたいと思っている。「望郷の念」に浸されていた蕪村の「夢」を実現させることが、筆者の人生最後の願いでもある。(了)
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2013年06月19日

9月の表彰式は「蕪村顕彰全国大会」です

蕪村顕彰俳句大学 事務局

                

 NPO法人近畿フォーラム21主催の「蕪村顕彰俳句大学」は、6月17日に「月刊:俳句会」を発刊している株式会社・文學の森と「共同運営事業契約」を結ぶことが出来ました。


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  この共同事業の目的は、「蕪村顕彰俳句大学」と「文學の森」が、俳人与謝蕪村を顕彰し伝統俳句文化の振興に資するため、蕪村顕彰俳句大学が主催する俳句講座「蕪村顕彰俳句大学」に「文學の森」が協賛し、さらに国内外との俳句交流に貢献を進めるというものです。



 同「契約」は6月17日に、文學の森が「月刊俳句会創刊10周年記念祝典」を大阪市内で行われた際、蕪村顕彰俳句大学の川原俊明学長と文學の森の姜h東代表取締役が面談し、上記目的の共同事業推進に正式に合意した上で、双方が署名押印して、無事終了しました。



 同「契約」に基づき、初回の「蕪村顕彰全国大会」は、今年第7期前期9月「表彰式」から開催することになりました。このため文學の森には、「蕪村顕彰全国大会」に向けて投句募集をして頂き、入賞句に対して大阪府知事賞・市長賞・学長賞、文學の森賞を授与する「画期的な共同事業」が実現したのです。
(なお、後期来年3月の「表彰式」は、蕪村顕彰大学の単独開催です)。

投句締切は、7月31日(水)で、

当句先は:〒169−0075 東京都新宿区高田馬場2−1−1−8F

株式会社 文學の森「蕪村顕彰全国大会」係です。

問い合わせは、同上(TEL:03−5292−9188 FAX:03−5292−9199)。

応募は、2句1組で、応募料は1組につき1000円(書留または郵便小為替)。


 ところで、この共同事業により、事実上関西が中心だった「与謝蕪村生誕地の大阪毛馬名と蕪村の俳句文化」が全国に広められることになり、われわれ蕪村顕彰俳句大学が目指していた後世へ託して行く「俳句文化の夢」が実を結び、素晴らしい事業推進に繋がって行くものと期待を膨らませております。


 ところで、3年後の2016年に迫って来た「蕪村生誕300年祭」を順次進めて行く計画を、大阪市大文学部の村田正博教授を「蕪村生誕300年記念事業委員会」の委員長に就任して頂き、市大の協力を求めて進めております。
この「蕪村生誕300年祭」を盛り上げるためにも、今回「共同事業」を契約した文學の森に更にお願いし、蕪村生誕300年祭の機運を高めて参りたいと考えて居ります。同時に「世界最短の詩」俳句の国際交流に貢献し、世界俳句愛好家の大阪毛馬への集客にも力を注いでいきたい決意です。



 この度、文學の森と「蕪村顕彰全国俳句大会」開催が出来るようになったことは、平成20年に蕪村顕彰俳句大学の句会講座を開講して以来の、大きな進歩になりました。共同事業にご協力頂いたことに深謝しております。
つきましては、文學の森に対しまして、これを機に蕪村俳句の高揚と生誕地・大阪毛馬の名を国内外に広めて行くことに、ご協力を賜りたいと、改めてお願い申し上げる次第で御座います。


<なお、第7期蕪村顕彰全国俳句大会へ全国からの「応募用紙」は、文學の森HPよりダウンロードして頂き、全国の俳句愛好家の方々に「投句」をして頂きますようお願い致します。

以上

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