◆更新情報◆

2013年10月11日

第8期「句会講座」始まる 10月11日

 第7期「句会講座」は、9月22日文學の森と共催して全国からの応募俳句作品を選考した初の「全国蕪村俳句大会」を催し、大きな盛り上がりの中で、第7期講座を締め括りました。

 第8期は、いよいよ10月11日(金)から「雨月」俳句会主宰 大橋晄講師による「句会講座」から始まりました。

 まず、「全国蕪村俳句大会」で選句された「大橋句会講座・雨月」受講生の作品が紹介され、文學の森賞を受賞された安部和子さんらがあらためて出席受講生から評価を受けました。

 このあと、恒例の「句会」が行われ、受講生同士の選句と大橋講師による選句と選評が1句づつ行われました。

 今度の「大橋講演」で特に興味を惹かれたのは、「蕪村を巡る沢山の謎(諸説)」でした。蕪村は、生前自らの出身地についてほとんど語らなかったといいます。そのことを追々

 その「講演」の素材に取りあげられたのが、毎日新聞社刊「俳句」の中で、石寒太氏が書いた「蕪村に関する20の質問」の「謎の多い蕪村」編でした。

 石寒太氏によると、<蕪村は、享保元年(1716)、摂津の国東成郡毛馬村に生まれました。本姓の谷口氏は母方の姓です。(中略)

 蕪村は、その地の長者(一説には村長)の家に生まれた、といいます。蕪村が(毛馬で)母を亡くしたのは、13歳のこと。やがて父にも死なれ、家も失い、蕪村は郷里(毛馬)を離れ江戸へ向かいます。享保の末(1735ころ)、蕪村20歳の頃でした。> と書かれています。

 ところが大橋講師は「講演」で、蕪村の母が亡くなった場所について石寒太氏とは異なる所見を述べられました。 <蕪村が「毛馬」を離れたのは、8歳の頃。母の故郷・与謝(「よざ」とも)に、母に連れられて帰郷したものです。母はその与謝で蕪村13歳の時に亡くなったたのであって、「毛馬」ではありません。

 蕪村はそのまま与謝で過し、17・18歳の頃に江戸に上ったのです。これについては諸説がありますが、とにかく母を亡くしたのは、「毛馬」ではなく、「与謝」というのが私の説です。> ということでした。

 さて、皆さんはどうお考えでしょうか。

 ところで別の「講座」では、下記のような説の話もありました。

 <蕪村の母は、与謝から奉公人として「毛馬村長の家」にやって来て、村長に気に入られて村長との間に「蕪村」が生まれたのです。ところが13歳に「毛馬」で母を亡くし、あとを追う様に村長も逝去してしまったので、蕪村の人生は大きく変わりました。

 つまり、村長家系の子孫では無くなったため、村長の死去に伴い、家系から外され、村長家の家族の者たちから「強い苛め」に遭わされ、生きて行く意志を阻まれようになったのです。そこで一人で力強く生きて抜くために、「毛馬」を離れ江戸に上ることを決意しというのです。> 上記も、一つの説でしょう。

 さて、安永6年(1777)2月23日付、伏見の柳女(りゅうじょ)と賀瑞(がずい)という門人の母子に宛てた手紙の中で、蕪村は「春風馬堤曲」を自解しながら、「毛馬村」が自らの故郷であることを語っています。

 これに続く手紙の文章は「余、幼童之時、春色清和の日には、必(かならず)友どちと此堤上にのぼりて遊び候」というものである。まことに平和で明るい幼年時の回想である、と打ち明けています。

 これによって蕪村生誕地が「毛馬」であることが、「定説」となりました。しかし肝腎の、蕪村の幼少の頃から青年時代に至る詳細な生き様は、確かに大きな「謎」に包まれたことばかりです。

 蕪村の母が、「与謝で亡くなった」という説や、蕪村は17・8歳の頃、「与謝」から江戸に上ったという説など諸説があります。その意味でも今度の大橋講師「講演」には、大きな関心が寄せられました。

 さて、第8期」10月には、10月21日(月)朝妻力講師、23日(水)に山尾玉藻講師の「句会講座」が開講致します。楽しみです。
posted by 蕪村顕彰俳句大学事務局 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 講座内容 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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