2013年10月25日

10月「句会講座」が終わり、 いよいよ「11月講座」へ

 第8期10月「句会講座」の2回目は、10月21日(月)に朝妻力講師による「講座」が開講しました。

 まず「講演」から始まり、正岡子規「俳諧大要」の「俳人蕪村 獺祭書屋主人」を引用しながら、俳人蕪村に関する子規の「積極的美」について述べられました。

 「積極的美」では、<東洋の美術文學は消極的美に傾き、西洋の美術文學は積極的美に傾く。春夏は積極にして秋冬は消極的なり。蕪村最も夏を好み夏の句最も多し。>という子規記述を紹介されました。 その例句として「牡丹散つて打重なりぬ二三片」、「五月雨や大河を前に家二軒」などを挙げて、蕪村句が夏を好み夏の句最も多いことの説明がありました。

 このあと、受講生出句の93俳句作品について「句会」が始まり、受講生がお互いに「選句」し合ったあと、朝妻力講師が全部の作品について「評論」が行われました。「語句の手直し」や「俳句に適合する文法使用」を1句づつ詳しく述べられ、「講座」は盛り上がりました。  10月3回目の「句会講座」は、10月23日(水)に山尾玉藻講師によって「開講」しました。

 最初は、今回「講座」の兼題とされた「秋果」に関する「蕪村俳句」の6句が紹介され、「秋果」を季題とした「蕪村句」の解釈が行われました。
続いて「講座」では、99句の受講生出句作品を巡って、まず受講生同士による3句づつの「選句」が行われました。 このあと、山尾玉藻講師による「入選」「佳作」「秀作」「選外」による「評論」が、1句づつ丁寧に進められました。

 そこで、山尾玉藻講師に依って選句された「秀作3句」を掲載致します。
  
・遠まはりせしたれかれに草じらみ    蘭定かず子
 
 (この人たちは何かの理由でわざわざ遠回りの道を辿って来たのだろう。しかしそれが為に思いがけずズボンやスカートの裾に草虱が付いてしまったのだろう。果たしてどのような道を歩いてきたのだろうか、どんな草虱であったのだろうか、と色々想像されて楽しい。)

 ・水に触るる熟柿に鯉の反転す      河ア尚子
 
 (熟れきった柿が重たそうに池の面に触れていたのだろう。そこへ池の鯉が何ごとかと近寄って来た。鯉は大きな口で熟柿をつつき餌ではないと知ったのか、ゆったりと身をかわした様子である。豊かで穏やかな秋の一景を鮮やかに切り取った。)

 ・猪の皮裏返すとき匂ひけり       大山文子
 
 (捕えられて余り日の経っていない猪の皮が干されているのだろう。当然のことながら獣特有の匂いがしたのだろうが、それが裏返される時にことさら強く匂ったように作者には感じられたのだ。ごわごわと硬い毛並の皮であるだけに、この感覚はものの実相を捉えていると言えるだろう。)

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◆11月「句会講座」が、いよいよ始まります。
 ・11月11日(月)が、朝妻力講師講座
 ・11月22日(金)が、大橋晄講師講座
 ・11月27日(水)が、山尾玉藻講師講座
上記が11月講座の「日程」です。大いに俳句作りに励みましょう。

 ところで、9月22日に第7期「蕪村顕彰全国俳句大会・表彰式」が無事盛会裡に終りました。初の共催となった「文學の森刊の全国誌・俳句界」に、当全国俳句大会の受賞句、入賞句と、4人の選者による個別の独特な「選評」が、14頁に亘って掲載されました。

 これをご高覧頂いた今回の全国からの応募者や後援諸団体等から、初「全国俳句大会」について、有難い評価や期待の意見が沢山寄せられ、事務局では感激しております。

 次回の「全国俳句大会」は、26年9月の第9期です。どうか全国からご応募期待して居ります。
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2013年10月11日

第8期「句会講座」始まる 10月11日

 第7期「句会講座」は、9月22日文學の森と共催して全国からの応募俳句作品を選考した初の「全国蕪村俳句大会」を催し、大きな盛り上がりの中で、第7期講座を締め括りました。

 第8期は、いよいよ10月11日(金)から「雨月」俳句会主宰 大橋晄講師による「句会講座」から始まりました。

 まず、「全国蕪村俳句大会」で選句された「大橋句会講座・雨月」受講生の作品が紹介され、文學の森賞を受賞された安部和子さんらがあらためて出席受講生から評価を受けました。

 このあと、恒例の「句会」が行われ、受講生同士の選句と大橋講師による選句と選評が1句づつ行われました。

 今度の「大橋講演」で特に興味を惹かれたのは、「蕪村を巡る沢山の謎(諸説)」でした。蕪村は、生前自らの出身地についてほとんど語らなかったといいます。そのことを追々

 その「講演」の素材に取りあげられたのが、毎日新聞社刊「俳句」の中で、石寒太氏が書いた「蕪村に関する20の質問」の「謎の多い蕪村」編でした。

 石寒太氏によると、<蕪村は、享保元年(1716)、摂津の国東成郡毛馬村に生まれました。本姓の谷口氏は母方の姓です。(中略)

 蕪村は、その地の長者(一説には村長)の家に生まれた、といいます。蕪村が(毛馬で)母を亡くしたのは、13歳のこと。やがて父にも死なれ、家も失い、蕪村は郷里(毛馬)を離れ江戸へ向かいます。享保の末(1735ころ)、蕪村20歳の頃でした。> と書かれています。

 ところが大橋講師は「講演」で、蕪村の母が亡くなった場所について石寒太氏とは異なる所見を述べられました。 <蕪村が「毛馬」を離れたのは、8歳の頃。母の故郷・与謝(「よざ」とも)に、母に連れられて帰郷したものです。母はその与謝で蕪村13歳の時に亡くなったたのであって、「毛馬」ではありません。

 蕪村はそのまま与謝で過し、17・18歳の頃に江戸に上ったのです。これについては諸説がありますが、とにかく母を亡くしたのは、「毛馬」ではなく、「与謝」というのが私の説です。> ということでした。

 さて、皆さんはどうお考えでしょうか。

 ところで別の「講座」では、下記のような説の話もありました。

 <蕪村の母は、与謝から奉公人として「毛馬村長の家」にやって来て、村長に気に入られて村長との間に「蕪村」が生まれたのです。ところが13歳に「毛馬」で母を亡くし、あとを追う様に村長も逝去してしまったので、蕪村の人生は大きく変わりました。

 つまり、村長家系の子孫では無くなったため、村長の死去に伴い、家系から外され、村長家の家族の者たちから「強い苛め」に遭わされ、生きて行く意志を阻まれようになったのです。そこで一人で力強く生きて抜くために、「毛馬」を離れ江戸に上ることを決意しというのです。> 上記も、一つの説でしょう。

 さて、安永6年(1777)2月23日付、伏見の柳女(りゅうじょ)と賀瑞(がずい)という門人の母子に宛てた手紙の中で、蕪村は「春風馬堤曲」を自解しながら、「毛馬村」が自らの故郷であることを語っています。

 これに続く手紙の文章は「余、幼童之時、春色清和の日には、必(かならず)友どちと此堤上にのぼりて遊び候」というものである。まことに平和で明るい幼年時の回想である、と打ち明けています。

 これによって蕪村生誕地が「毛馬」であることが、「定説」となりました。しかし肝腎の、蕪村の幼少の頃から青年時代に至る詳細な生き様は、確かに大きな「謎」に包まれたことばかりです。

 蕪村の母が、「与謝で亡くなった」という説や、蕪村は17・8歳の頃、「与謝」から江戸に上ったという説など諸説があります。その意味でも今度の大橋講師「講演」には、大きな関心が寄せられました。

 さて、第8期」10月には、10月21日(月)朝妻力講師、23日(水)に山尾玉藻講師の「句会講座」が開講致します。楽しみです。
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