2012年08月30日

第5期講座が終わり、いよいよ「表彰式」です

                NPO法人近畿フォーラム主催
                   蕪村顕彰俳句大学 事務局


◆蕪村顕彰俳句大学第5期8月講座の2回目となる「小中高国語担当教諭講座」は8月25日(土)に開かれ、藤田真一関西大学文学部教授が講師として講演を行いました。

 講演のタイトルは「蕪村俳画漫歩」で、蕪村の自画である@妖怪絵巻A太祇馬堤灯図B牛若・弁慶図C若竹図D盆踊り図E内裏朧月図芭蕉図Gうたたね自画の8図の素晴らしい絵画の写しをもとに、如何に蕪村が当時優れた絵画で活躍していたかを詳しく説明され、蕪村画家像が浮かび上がりました。

 蕪村は、京都で宋画の花鳥画、人物画等を学び、それを日本風の独特な絵画として描き替えた絵師として名を広め、沢山の注文を得たということでした。
 
 特に注目されたのは、机に肘を付いてうたた寝している姿のGの絵に、
     「学問は尻からぬけるほたるかな」   という蕪村句が添えられていた事でした。

 蕪村は、芭蕉と違って、絵画に力を注ぐ傍ら、俳句も名作を残した江戸時代の俳人であるという講演に受講生は耳を欹てました。蕪村像を克明に披露した蕪村研究学者の第一人者と称される藤田教授の貴重な講演でした。



◆8月27日(月)の朝妻力講師による8月3回目の「句会講座」、まず「俳句の表現と鑑賞」という題目で「句形 切れと句点」の講座が行われました。
 この中で、講義された「句形と切れ」についてご紹介します。
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・俳句の形(句形)は、一句一章とか二句一章と表現される。
    :一句の「句」は句点の打たれるべき文節。意味を持つ分の最小単位。句文。
    :一章の「章」は、ひとまとまりになって意味の完結している詩文。
      一章 = 一つの俳句。
      切れは句点と同義である。句点は通常の文章では 。 で示される。

・句点が一つの俳句  一句一章
・句点が二つの俳句  二句一章
・句点が三つの俳句  三句一章・三段切れ
          (三段切れは必ずしも拙劣ではない)

 句形を決めるのは切れである。切れは文の断点を下記のケースで切れる。
   活用語の終止形・終止の役割をもつ助詞・続くべき語が付かない体言・他
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 「俳句の形を理解するには、句点(。)を打ってみるのが最も確実」という朝妻講師の説明には、心から納得させられました。
 この後、「句会」行われ、朝妻講師が選ばれた「特選句」を別ページに掲載させて頂きます。

             8月27日 選者 朝妻力講師 特選句 ◆ (クリック)

 第5期の朝妻教室の「講座」も「句会」も、楽しいものでした。




◆8月29日(水)第5期講座を締め括る山尾玉藻講師の「句会」が、猛暑の中、午後1時から開かれました。
 「句会」は自由題で寄せられた99句の作品を、受講生が互選し、それを参照しながら山尾講師が、「佳作、入選、特選」を選句され、そのあと個々の句について丁寧に「評論」をされました。中でも、俳句を作る時「季語を代えると、広がりをもつ句となる」と指摘され「評論」されたのは、印象的でした。

 山尾講師が選ばれた「特選句と選評」を別ページにて掲載させて頂きます。

             8月29日 選者 山尾玉藻講師 特選句 ◆ (クリック)

 また、今回の「句会」で「添削」されたの句の中から、参考迄に寄せて頂いた「添削句」の一部も同ページに て掲載させて頂きます。「句会」の様子が伺えます。

             8月29日 選者 山尾玉藻講師 添削句 ◆ (クリック)



蕪村顕彰俳句大学の第5期講座が終了しました。   
いよいよ第5期講座での優秀賞を授与する「表彰式」を開催致します。   
「児童生徒の部」「一般の部」、そして今期から新しく「国際俳句蕪村賞」を授与致します。   
受講生、児童生徒の皆様、俳句に関心のある方のご参加をお願い致します。   
  
 日時 : 9月23日(日)午前10時〜             
会場 : 大阪市立淀川小学校の講堂(前回と同じ)   

詳細はこちらから    
posted by 蕪村顕彰俳句大学事務局 at 15:35| Comment(0) | TrackBack(0) | ご挨拶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月29日

特選句・添削句


 <8月27日 選者 朝妻力講師 「特選句」> 

  ◆ 梅花藻の揺れていよいよ水涼し        宮田 かず子
  ◆ いなびかり彼の山裾も人住める        宇利 和代
  ◆ 沖膾錆美しき舟箪笥                渡辺 政子
  ◆ 来迎の絵図を柱に堂涼し            中川 晴美
  ◆ 新涼や紙燭灯せる石畳             角野 京子
  ◆ 叡山の影新しき夕立あと             吉村 征子



 <8月29日 選者 山尾玉藻講師 「特選句と選評」

 ◆ 盆波のくだけて碧し神の巌      蘭定かず子
 <盆の頃ともなると海の波は荒くなる。その波が神が宿るとされる巌を打ち蒼々と砕け散る景はなんとも神々しい。場所を得た言葉一つ一つが響き合い張りある一句を成している。>

 ◆ 草の絮ゆつくり沈む草のうへ     小林成子
 <本来、種を運ぶ草の絮は風に吹かれて他の地に落下して種族を増やしていく。しかし、眼前の草の絮は風で一旦は舞い上がったものの、また元の草へゆっくりと落ちてきたのだ。常識的な眼差しでは見逃すであろう草の絮の真の一面を捉えた一元句。>

 ◆ 予後の身を問はれてたたむ秋日傘   原田タキ子
 <夏の間臥せっていた作者が、道で出会った人にその後の体の具合を訊ねられたのだろう。差していた日傘をわざわざ畳んで話す様子から、訊ねてくれた人への有難さや嬉しさが窺い知れ、ほのぼのとした佳い景である。夏の「日傘」ではこの微妙な味は出せない。>

 ◆ ふくめ煮のどれも薄味終戦日       山本耀子
 <とりどりの野菜や乾物を柔らかく薄味に煮こみ楽しんでいるところから、凡その年齢や常に身を慈しんで暮す様子が想像される。それだけに終戦日への思いも深い筈だが、それを力み過ぎずそれとなく伝えてこころにひびく。>

 ◆ 迷ひ子を祭団扇であふぎけり       阿久根良一
 <祭の日の迷子センターでの嘱目詠であろうか。不安がる子供は玉の汗をかいて泣き続けるばかり。困り果てた係員は傍らの祭団扇でその子供を煽いでやるばかり。祭の一景を切り取って大変微笑ましい。>



 8月29日 山尾玉藻講師 「添削・寸評」

 <原句>     腹当てをまとひ子供の昼寝かな    渡邉征一郎 
<添削>   腹当ての大きくはづれ昼寝の子

  ○ 腹当てをして子供が昼寝をするのはいわば常識。常識的な景を原点にして作者独自の発
   見や感動が無ければ詩とならない。
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 <原句>     母捜す鉢巻緩む踊の子      増田忠勝 
<添削>  母捜す眼差しとなる踊の子

  ○ 母親を捜すのは緩んだ鉢巻を結び直して貰う為、と理由や事情を述べて失敗しました。
      どうして、何故、それを読み手に想像させるのが俳句の妙味。詠み手は言わねばならぬ
   事と言ってはならぬ事を正しく判断するべきです。
         「謂応(いひおほ)せて何か有(ある) 芭蕉」
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 <原句>    うろこ雲雑踏を行く肩車     前田 忍 
<添削> 肩車が雑踏を行くうろこ雲  

  ○ 原句は名詞挟みの為、雑踏を行くのはうろこ雲と解される恐れがあり、三段切れ的な
    印象も免れません。上五が六文字となるのは可能ですので、ここでは「肩車が」と明
    確にするべきです。
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posted by 蕪村顕彰俳句大学事務局 at 15:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 講座内容 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月24日

俳句エッセイJ

                  蕪村生誕地を証明した「一通の書簡」
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                                                   毛馬 一三
(蕪村顕彰俳句大学事務局)


松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸時代の俳人与謝蕪村の生誕地が、大阪毛馬村(大阪市都島区毛馬町)だということは、江戸時代当時から知れ渡っていると思っていた。

仮にそうでなくとも、明治時代になって、蕪村俳句を初めて評価し世に紹介した正岡子規が、毛馬生誕地は把握し、世に広めていたに違いないと思い込んでいた。

ところが、事実は全くそうではないことが明らかになり、驚かされた。

それの事を知らされたのは、NPO法人近畿フォーラム21主催「蕪村顕彰俳句大学」講座で講師をお願いしている、蕪村研究第一人者の関西大学文学部の藤田真一教授と、懇談した時であった。

結論から先にいうと、蕪村生誕地が大阪毛馬であることが「定説」になったのは、実は終戦直後のことだということだった。奈良県でこれに纏わる「蕪村直筆の書簡」が見つかったのが、キッカケだったというのである。

藤田教授の話によると、次のようなことだった。

(蕪村は、自分の生誕地のことは、俳人・画人として活躍していた江戸・京都でも、何故か余り触れたがらず、主宰の「夜半亭」の弟子たちにも語ったという明確な「記録」は残されていないという。このため、蕪村の生誕地を確知していた者は、いなかったのではないかというのだ。

ところが蕪村は、安永六年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(二十頁ほど)の冒頭に、「春風馬堤曲」を書き、毛馬村側の淀川の馬堤に触れ、十八首の俳句を添えている。が、残念なことにその舞台となる馬堤近くが自分の「生誕地」だとは一切触れていない。

想像してもこの書き方では、「生誕地を毛馬村」と結びつけることは出来ない。

しかし、その後願ってもないことが起きていた。

蕪村は、この「夜半楽」冊子を贈呈した大阪在住弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」の中で、自分の生誕地が毛馬村だと、下記のようにはっきりと綴っている。

春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」。

それなら、これが物証となって、江戸時代から毛馬村が生誕地だと定説になっても良かったのだろうが、そうならなかったのには理由がある。

というのは、江戸時代の発刊諸本には複製本が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。このため「夜半楽」の弟子への添え状ですら、複製なのか、それとも蕪村直筆のものか判定出来ず、結局「蕪村生誕地複数説」を加速させる結果を招き、生誕地説は宙に浮いたままの状態だった。

しかし、前記の如く、奈良県で終戦直後偶然見つかった弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」が、「蕪村直筆」だと、公式に「認定」されたため、「毛馬生誕地」説が確定した。終戦直後の認定だから、遅きに失したと言わざるを得ないが、これは「蕪村生誕地複数説」を破棄し、毛馬村を生誕地とする歴史的且つ画期的「決め手」となったことになる。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述の淀川風景の描写や添付十八首と、柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きへの想いを結びつけて考えると、「毛馬村への切ない郷愁」を浮き彫りとなる。

以後、生誕地が毛馬村であることを不動のものになったことになる。この経過を考えると、蕪村生誕地を定めた一通の「蕪村直筆書簡」の存在は、実に大きかった。

これが「認定」されていなかったら、蕪村が大阪俳人として登場することも無かったことになるだろう。)

こうして、蕪村が大阪生誕の俳人と称されるようになってから七十余年しか経たない。そのため蕪村は、芭蕉や一茶とは異なり、江戸時代以来、生誕地大阪で「蕪村生誕顕彰」が疎かにされてきたことに繋がってきており、誠に慙愧に絶えない。

このために、今ですら地元大阪で「蕪村生誕地が毛馬村」であることを知らない市民は多い。次世代を担う児童生徒の学習の俎上にすら上がっていないことを考えると、児童生徒が生誕地のことを知らないことも当然のことだろう。残念で仕方がない。

だから、われわれ「蕪村顕彰俳句大学」では、四年後の蕪村生誕三百年に向けて、「三百年記念諸行事」を開催し、俳句文化活性と後世への伝承、そして国際化への発信を大々的に進めたいと考えている。

余談ながら藤田教授との懇談の中で、更に驚いたことがあったことを記して置きたい。
「蕪村は淀川を下って源八橋から船を降りて浪速の弟子のもとに往き来きしていたようですが、それほど郷愁があったのなら、極く近郊にあった毛馬村の生家に立ち寄るのが自然だと思うのです。その痕跡はありませんか」
答えは「それを証明する歴史書類はありません。立ち寄ったか否かどうかも、わかりませんね」ということだった。

となれば、生誕地への郷愁は人一倍あったとしても、生誕地へ何らかの理由で寄りたくない気持ちがあったのだろうという推察が浮上してくる。

恐らく奉公人だった母と実家の父が亡くなってから、家人たちによる極めつけの「いじめ」があり、そのために十七・八歳で家を出ざるを得なかったのではないか。そのことが「生家には生涯立ち寄らなかったこと」に結びついているのではないだろうか。
これはあくまで私の推論である。

 最後になりましたが、どうか、四年後に向けた私たち主催の「蕪村生誕三百年記念諸行事」の開催に、是非共皆様のご賛同とご支援を伏してお願い申し上げます。(了)
                                                                         

posted by 蕪村顕彰俳句大学事務局 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 俳句エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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